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山根麻以さんとふつうの唄

30日の桜坂劇場での山根麻以「輝きの音」コンサート。

いいタイミングで沖縄に来ていた内地のお友達にも声をかけたら参加してくれました。

8名で参加したコンサート。
麻以さん初体験の5名は涙・・・

そして、1歳の娘までが、ノリに乗って拍手や
何かを唄っていた。

麻以さんは、何かのインタビューで、
自分はスピリチュアルとかそういうのを特に意識してやってるつもりはない。
自分がやっているのは「アウェイキング・ソング」(目覚めの唄)なんだと
いうことを語っていた覚えがある。

麻以さんの唄を初体験の5名は、それぞれに気づきをたくさん貰ったと言ってくれた。
こういう繋ぎ役ができるのって、嬉しい。

麻以さんの唄はたくさんいいのがあるけれど、
僕のお気に入りは、やはり「ふつうの唄」だ。

何度、この唄に救われたかわからない。
そして、何度聴いても、歌詞の深さが身にしみる・・・

この唄存在を知ってから10年近く経つけれど
ずっとずっと魂に響く唄だ。

そんな「ふつうの唄」について2005年に日記を書いたことがある。
それを麻以さんが見ててくれて、
そのことについて日記を書いてくれたのを転載します。



「ふつうの唄の偶然」 (麻以さんの某日記から転載)

雨の音で目が覚めた。
台風はどうなってるんだろう。。

そんなこと思いながらパソコン立ち上げたら、
二人のマイミク最新日記に自分関係の書きこみをみつけた。

訪ねてみると、二人とも「ふつうの唄が生まれた日」という
2003年に私がふつうの唄ネットに書いた文章を載せてた。
(何か書きこもうと思ったんだけど、なんとなく何を書いていいかわからなくて。。ごめんね。)

あの唄が出来たのは97年。もう8年になる。

ライブの時にはほぼ毎回歌ってきたけど、
大手CDショップにも入ってないし、
HPが出来たのが2003年だから
(それまで無かったというのもすごい話だけど)、
ほとんど口コミだけで広がったことになる。

ほんとにみんなに育ててもらった唄だ。

偶然、同じ朝に、同じ文章が載ってた。

私は、十分に幸せを感じてないな、と思う時にはあの唄を聞く。

感覚を刺激するだけの、いつか過ぎていってしまうような幸せじゃなくて、
いつも絶対ココにあるふつうを知ってる安心に戻るために。

意識の視界にかかった枠を外し、
自分や世界をありのまま見ることができるように。

みんなそれぞれそういう音楽や方法を持っているんだろうけど、
私の場合はこの唄がそれだ。

歌うことに関してもそう。

この唄は、歌おう、伝えようとすると嘘っぽくなる。
だから私にとってのバロメーターでもある。

97年の夏にこの唄が出来てからすぐ、私はセドナへ行った。
とても思い出深い、美しい旅だった。

帰国の前日、ラコタトライブの人たちがお祈りをする
レイチャーズノーウェルという場所に行き、
CDのジャケットとほぼ同じ形をした
メディスンホィールと呼ばれるストーンサークルの中で瞑想していた。

このメロディが、数年前、これからラコタのメディスンマンの元へ嫁ぐという
美しい女性に会った夜にやってきたことを思い出した。

そのすぐ後、私はネイティブの視点から見た
宇宙の創造の歴史を絵巻物のようにみせてもらった。

それはとても雄大で、平等な物語だった。
気がつくと私は、ひざを叩きながらあの唄をうたっていた。

後で考えると、
ちょうどその時間あたりに、日本で父が亡くなっていた。

突然のことだった。

私はこの唄が出来た時、
どうしても父に聞いてほしいと思っていたので、とても残念だった。

彼との様々な確執がなければ、今の私はないから。

私はお通夜の席で父にこの唄を歌い、
歌詞を書いた便せんを棺に入れた。

もともとこの曲は録音するつもりがなかったのだが、
父の死と友人の強い勧めがきっかけでレコーディングすることにした。

やると決めると、いくつもの偶然が重なり、
何もかもが奇跡のようにすいすいと動き、
最高のともだちと一緒に、最高の気分で録音することが出来た。

私はレコーディングの時にはどの曲もたいてい一度しか歌わない。

唄い終わったふつうの唄を初めてプレイバックで聞いた時、
みんなが居るスタジオの中で、私は声をあげて泣いた。

子供の頃から体験した様々な感情や、
伝えられなかった思い。魂が記憶している人類の歴史の不条理。

その時、どこからほどけばいいのかまるでわからないほど
もつれた糸のような幻想の束を流してくれたのは、
「私はこうやって生きる」という決意のようなものだった気がする。

私はとてつもなく悲しくて、同時に強烈に嬉しくて、
真実に満たされて、大声で泣いた。とめられなかった。

だから、あの唄に癒され、後押ししてもらった最初の人は私自身かもしれない。

CDになってからも、
この唄をめぐる不思議ですてきな物語にたくさん出会わせてもらった。

聞いてくれた人たちが私に教えてくれるどのストーリーも感動的だった。
いつかシェアできるといいなぁ。

今ふと思ったんだけど、あの唄が生まれたのは、
8年前の8月の終わり。
ひょっとすると今日あたりが誕生日なのかもしれないね。



★山根麻以HPより転載★

「ふつうの唄」の生まれた日

1996年のある日、
私は内側からのとても強い促しを 感じました。

それは、
「人間の持つ限りない可能性と、
 その存在自体を 讃える人間讃歌が、いずれ必要になる。」
というものでした。

そんな大きなテーマの歌が私に作れるだろうかと、
一瞬戸惑いましたが、
「もしこれが本当に必要とされるものなら、
きっとできる時にできるだろう。」と、
しばらく忘れることにしました。

次の年の春、友人から紹介された女性と
夕食を共にする機会がありました。

彼女はこれからネイティブアメリカン
のメディスンマンの元へ嫁ぐという方で、
彼らの祈りや儀式、 歴史などについて
いろいろお話を聞かせていただきました。

その帰り道、心の中であるメロディが鳴りはじめました。

急いで家に帰ると、さっそくピアノに向かい、
そのフレーズを繰り返し弾き、録音しました。

その時にはこれが何のためのメロディなのか
私にはわかりませんでしたが、
気が付くとそれを口ずさんでいる自分がいました。

それからしばらくして、私は東京を離れます。
どの窓からも富士山の見える家に引っ越している
夢を見たことが直接のきっかけでした。

当時の私は、仕事もそれなりにうまく行っていて、
好きなときに海外旅行に行く時間を作ることもでき、
優雅な独身生活という感じでしたが、
同時にゆっくりと 自分を見つめなおしたいという思いも強く、
突然の決断に 驚く友人達は大勢いましたが、
自分では新しい環境に 入ることにそれほど抵抗はありませんでした。

しかし、すぐに思い悩むことになります。

27歳の頃から
「本当に自分が唄うべき歌は何なのか?」
と考え始め、
その疑問は、そのまま
「自分は何のために生まれてきたのか?」
という、誰でも一度は真剣に思いを めぐらす疑問に変わり、
自分探しの旅が始まりました。

いろんな人にめぐり合い、その時々に必要な教えを受け、
いろんな体験をしながら、 自分なりの答えを見つけ、
もう何が来ても大丈夫なはずだったのですが、
180度違う環境の中で湧き上がる思いは、
「自分はもう世間に必要とされていないのではないか?」
という不安。

東京を離れ、仕事のオファーも半分以下に減り、
知らないうちに身に着いた、他人の評価で自分を計る癖が
まだ取れていないことに気が付いたときには、愕然としました。

そんなある日、なにげなくベランダに出ると、
そこにはいつもと変わらず美しい富士山。

空は透明に青く、新緑からもっと深い緑に変わろうとする
木々の葉を揺らす気持ちのいい風。

枝が優雅に踊ると、その波は新しい揺らぎを生み、
隣の枝へとスローモーションで伝わっていきます。
全てが調和した、どこが始まりでどこが終わりも無い、
延々と続くゆったりとしたゆらぎが、3D画面のように
展開していました。

「そうか、木は自分で踊ろうとしていない。
 吹く風にまかせ、太陽の光を受け、ただ自分のまま
 そこにあるだけ。私は一体何を悩んでいたんだろう。」

富士山の麓に引っ越して3ヶ月が過ぎた頃、
ようやく私の新しい人生が始まりました。

それからは、まるで子供にもどったように、
見るもの聞くものすべてが新鮮でした。

ある日の午後、気分良くお風呂に入っていると、
すらすらと言葉が浮かび、
しかも例のメロディに乗っかっています。

あわてて書き留めてピアノに向かいました。

「君の中に神様はある。」から始まったその唄を、
私は何度も何度も繰り返し唄いました。

とてもしあわせでした。

97年8月、こうやって「ふつうの唄」は誕生したのです

http://www.futsuunouta.net/



ドラゴンアート日記「Don't think, Feel !!」

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